Interview
一本の線を引く緊張感と一人を動かす困難を知り、お客さま先をリードする最強のチームを動かす
機械系エンジニア
エンジニア略歴
- 1991年入社、半導体製造装置部品設計、空調機器、農業機械設計、プラント設計
- 1993年~自動改札機、券売機の設計
- 1997年~自動販売機の搬送部機構設計
- 1998年~入出金機の機構設計
- 1999年~自動車用電装部品設計
- 2001年~全自動洗濯乾燥機の部品設計、OA機器用センサーの設計・評価、海外向け掃除機の部品設計
- 2002年~空調機器の構造設計および部品設計
付加価値を生み出す。
その第一歩は、考えること。
3人兄弟の末っ子で甘えん坊。勉強が全然できない少年だったと笑う。お兄さんもエンジ二アで、家には製図道具があった。中学時代、いたずら気分で、図面のようなものを描いてみた。意外なことに上手にできた。面白かった。「ああ、こんな線が引けるんだ!」。脇原さんのエンジニア人生は、そんな一本の線から始まった。
「正直、学校の勉強はまったくできませんでしたね。就職が決まっても母親は半年で辞めると思っていたそうです」
そんな脇原さんが入社した当時、思い出深い出来事があった。
「先輩からコピーを取ってきてと言われた。はいと言って立ち上がったら、叱られました。どのような用途に使うのか確認しないと、コピー1つ取るにもユーザーの希望どおりにはならない。簡単な話だが、『まず考えろ』と。機械的な対応では、お客さまに付加価値を提供することはできないというエンジ二アの基本を教えていただいた気がします」
こんなこともあった。
「請負チームで仕事をしていて、最初は図面を描いていたのですが、あるとき先輩に『描かなくていいから、お客さまのところに納品に行って、説明してきて』と言われたんです。仕事を取り上げられたと思い、ショックでした」
だが、説明するのは簡単ではなかった。脇原さんは、仕事とは単なる技術のアウトプットではなく、人と人とのコミュニケーションでできていると知り始める。
感情がある人間だから、
機械的指示では動かない。
その後、派遣され生産管理の仕事をした医療機器メーカーでは、人に伝え、そして動かす困難にぶつかった。
「工場ラインで働くワーカーのために、イラストを描いて作業を説明する作業書づくりでした。自分の仕事もまだよく分からない若造が、明日出社する人たちのために、どんどん作業書をつくっていかなくてはいけない。振り分けて、自分でやってできるか試して、他部署と折衝をしながら進める。ワーカーの仕事にアンバランスがちょっとでも出ると苦情がくる。つらかったですが、こうした交渉をして仕事を進める経験は、今の後輩指導や、取引先との交渉の基礎になっています」
例えば、翻訳ソフトに英文を放り込んでも意味のとれる言葉にならないように、機械的な指示では感情のある人間は動かない。脇原さんはいつか「人を動かす言葉の力」「人を見て自分の姿を直す」ということを、自らのスキルの核にあるものと考えるようになっていた。
「一本目の線を引く緊張感」が、
3次元図面をシンプルにした。
現在の配属先に移ったのは2002年。
「お客さまから頼りにされる先輩がたくさんいる部署でした」
派遣されて最初は苦労した。3次元CADもまともに使えなかった。でも、苦労して自分のものにしていくうち、気が付くと、周囲の人が参考にしてくれるようになっていた。
キーワードは「一本の線の大切さ」。
「私自身は手描きの時代からキャリアをスタートしました。初めからCADしかなかった時代の人には理解しにくいことかもしれませんが、手描き図面というのは最初の一本の線を引くのにものすごい緊張感があります」
現在のCADなら「とりあえず描き始める」というやり方でも、帳尻は合う。だが、図面には出図後の修正がつきもの。壊れにくく、ばらしやすい3次元データにするには、極力シンプルであることが望まれる。一方で、端末上で試行錯誤を繰り返せば、どんどんデータは複雑化していく。感覚的に構造を理解することも困難になり、トラブルが発生したときなどには、復旧が困難になっていく。
「いかに修正可能な3次元CADであっても、最少の操作、最短の道筋・手数で完成させた方が絶対にいい。決して難しいことではなく、とりあえず端末に向かう前に、頭の中でイメージを固めてから作業に移るだけで、データのシンプルさは変わってくるものです」
全員の力で付加価値を生み出し
リーマンショツクも乗り越えた。
強力なパートナーシップで結ばれているように見えるメイテックとお客さま先だったが、リーマンショック時には、15人の大量復帰という激震が走った。
「これでは現場が回るはずがない。どうすればいい? という雰囲気になりました。とはいうものの、私たちの仕事が止まるわけでも、お客さま先の会社が休みになるわけでもない。だったら、今いるメンバーで仕事を回す方法を考えるしかない」
残ったメンバーが、必死に頭を絞って対応策を考えて、それまでの仕事を継続させた。従来にも勝る付加価値を生み出す努力をした。
「エアコンは典型的な成熟分野で、もうこれ以上新しい付加価値を付け加えることは不可能じゃないかとさえ言われています。こうした中で、私たちにできることは、1円でもコストを下げるということになってきています」
ネジ1本でも減らすためには、どうすればいいか、と考える。すでに、ぎりぎりまで削り取られた中から、ネジ1本減らして機械が不安定になってはすべてが台無しになってしまう。だからこそ、とことん考え続ける。
「工場生産の立ち上げのための海外出張も毎年のように行っています。近年ではチェコに行き、日本語→英語→ドイツ語→チェコ語という伝言ゲームのような打ち合わせにラチがあかなくて、最後はマンガと数字でコミュニケーションするというような貴重な体験までできました」
次はどんな仕事をしたいか、まだ分からないと言う脇原さん。だが、現在のお客さま先で培った姿勢とスキルは、場所が変わっても確実に活きると信じている。求められたことだけをやっているのでは、先輩たちが築き上げた信用を守ることはできない。新しいことをどれだけできるか。どれだけの付加価値を生み出すことができるか。「半年で辞める」と言われた新人は20年たって、新しいものを生み出す苦闘を今日も楽しみ続けている。
※当社社内報「SYORYU」:2011年冬発刊号に掲載した記事です