Interview
半導体製造装置の設置業務で鍛えられた8年間が、ソフトエンジニアの基礎を築いてくれた。
マイコン・システム系エンジニア
エンジニア略歴
- 1999年新卒入社
- 2000年~半導体製造装置の設置業務、自動化ツール設計
- 2010年~液晶テレビ用ガラスの製造外注委託管理
- 2011年~自動車用ボディコントロールユニットの要求分析
車かロボットの希望がかなわず
製造装置の設置業務を8年担当。
入社からのおよそ8年間、厳密な意味での設計・開発エンジニアとは違う仕事を経験してきた。けれどその回り道で学んできたものが、「理想のキャリア」へと導いている。
「小さいころから車やロボットをつくりたいという夢がありました。それには電気と機械とソフトの知識が必要だと知り、工業高校の電子機械科、大学ではシステム工学科へ進みました」
やがて「自分は機械や電気には向いていない」と自覚し、ソフトエンジニアとして就職先を探す。しかし就職氷河期の中、希望する自動車関連会社への入社は至難だった。
「だったら派遣エンジニアとして経験を積んでみよう。自動車関連の仕事に就ければラッキーだ。そんな考えでメイテックに入社しました」
しかし担当することになったのは、ソフトと無縁な半導体製造装置の設置業務だった。
「100㎏を超える高性能レンズを搭載した露光装置で、それをクライアントの工場に設置し、調整する仕事です。半導体はナノレベルの精度が必要なため、まさに職人技の微調整技術が求められました」
例えば「最後の最後、レンズ部分を触れるようにコンと叩き、それで調整が決まるという繊細さ」が求められることもある。配属されたお客さま先では、約30名のメイテックエンジニアに設置業務が丸ごと任されていた。佐野さんは先輩社員を手本に、見よう見まねで調整業務を学んでいった。
「先輩からは、『われわれが任されている意味を考えろ。任された以上、必ず期待に応えるのだ』と徹底的に教え込まれました。希望した仕事とはまったく違いましたが、優秀で面倒見のいい先輩たちと働けたのは幸運だったと思います」
世界を巡る過酷な日々に体得した
「楽しくなきゃ仕事じゃない」。
しかし、仕事はハードだった。
「設置先の工場は、すべて海外なのです。チームに入って2ヵ月でイタリアへ行き、帰るとすぐに韓国へ。八年以上にわたって設置業務を担当しましたが、多い年で300日は海外滞在でした。仕事以前に、そうした働き方自体が大きなストレスでしたね」
ほぼ3ヵ月ごとに違う国を渡り歩く生活に、数ヵ月程度で音を上げる新人もいた。佐野さんも「こんな仕事、一年で辞めてやる」と思っていたが、結果としてやり切った。
「先輩たちの教えもあって、仕事を楽しみに変え、ストレスを溜めないようにする発想法を体得しました。今も『楽しくなければ仕事じゃない』が私のモットー。エンジニアの仕事は、モチベーションがそのままアウトプットに現れます。嫌々やっていると成果は出ないし、評価されずチャンスも訪れません。私は時間を見つけては町を歩き、『会社のお金で観光旅行をしていると思えばいい』と発想を転換し、出張を楽しむようにしました」
もう一つ、この時期に痛感したのが、「コミュニケーション力の重要性」だという。
「海外には5人程度のチームで赴きます。何かが起きたら、まずはチームで解決しなければなりません。状況を把握し、対処法を考え、判断し、行動します。このとき、いかに普段から設計部門などとコミュニケーションを取り、設置業務だけでは知り得ない技術情報などを収集しているかが重要です。情報が無いと、正しい判断ができないのです。それでも判断できないときは日本に連絡して判断を仰ぎますが、時差や通信環境により一日に一通のメールしかやり取りできない場合もあります。一つのメールですべてを伝える、論理的で簡潔な伝達方法も、ここで学びました」
念願のソフトの仕事は短期終了。
教育訓練、購買業務と試練は続く。
設置業務に取り組みながらプログラム設計を独学し続けていたところ、願ってもないチャンスがやってくる。設置業務をシステム化するプロジェクトが部内でスタートしたのである。
「この機会を逃したら自分は一生ソフトエンジニアにはなれないと思い、『やらせてください!』と思い切って手を挙げて、開発部隊へ異動できることになったのです」
しかし、勇んで開発に取り組み始めたものの、すぐに壁にぶち当たる。
「プログラムをやりたいという想いばかりで、何をしたらいいのかまったく分からなかったのです。『設計する』という概念すら頭になく、いきなりプログラムを書き始めて『おい、設計書は?』と先輩に言われ、『何ですか、それ』と答えたり。悪戦苦闘して、何とか八割仕上げたところで、リーマンショックが起きました」
志半ば。その後、一年半の教育訓練生活に入ったが、この逆境も楽しもうとした。
「あまりに無知でしたので、組み込み系のプログラムをじっくり勉強するいい機会でした。おかげで、ようやく多少なりともシステムづくりに挑む自信を持つことができました」
しかし次の業務は、購買の仕事だった。
「液晶テレビ用ガラスメーカーが生産を外部委託するので、生産計画や資材供給計画などを任されました。仕事に技術の要素がなかったため、思い悩むことも多かったです」
綿密なスケジュール管理手法など、得るものは多かったが、エンジニアとして技術に携わりたい思いが強く、半年で異動を願い出た。
何が何でもやりたかった。
念願の自動車関連会社に異動。
「これまで希望とは違う仕事ばかりでしたので、今回は『自動車関連のメーカーに行きたい。なんなら契約する対価が下がってもいいから』と強く要望しました」
その願いが営業とお客さまに響き、自動車部品メーカーで要求分析の仕事を担当することになる。
「ドアロックやヘッドライトなどを制御するシステムが詰まったボディコントロールユニットを担当し、完成車メーカー側の要求を具体的にどんなソフトに落とし込むべきかを考えています。クライアントから届いた仕様書を深く読み込み、あるべきソフトを追い求める。実に楽しいですね。残業でさえも苦じゃないので、周囲からは不思議がられています」
しかし、最初は大変だった。知識がまったくない状態でクライアントに赴き、「あなたは何も分かっていない!」と二時間のお説教を食らうところから仕事はスタートした。
「とにかく人に聞きまくって勉強しました。ソフト業界には、あまり人に聞く文化がないようで、ずいぶんと珍しがられました」
最近はソフト評価チームの進捗管理も担当。希望と異なる仕事をいくつも経験し、回り道をすることでさまざまな発見を積み重ねてきたからこそ、気付くことがあると言う。
「システム開発は、多くのエンジニアが分業でソフトを組むケースが多い。しかし各人が勝手に進めると、最後に不具合が出やすくなります。ソフトエンジニアにこそ、コミュニケーション力が不可欠なのです。日ごろから情報交換していれば、行き違いを防げます。短納期の仕事も多いため、スケジュール管理力も重要です。若いエンジニアたちに、そんな実感を伝えることも、私の役割かもしれませんね」
今後は、じっくり設計に取り組む業務にもチャレンジしたい。太くて丈夫な根をつくり上げた佐野さんのステップアップは、これからが本番だ。
※当社社内報「SYORYU」:2015年秋発刊号に掲載した記事です