Interview
「変わったこと」をやり続けたい。
いままでとは異なる場所で、いままでとは異なるやりかたで。
マイコン・システム系エンジニア
エンジニア略歴
- 1989年新卒入社、機械系からマイコンシステム系へ転換
- 1989年~テレビ、VTR、DVDデコーダー、DVDレコーダーの制御プログラム設計
- 2005年~携帯電話アプリケーション 制御プログラム設計
- 2008年~デジタル一眼レフカメラのレンズ、高速化機能制御プログラム設計
- 2012年~デジタルムービー画質制御プログラム設計
- 2013年~自動車エレクトロニックコントロールユニット、評価基準立案
人を驚かせたい、から
ものづくりに興味がわいた。
子ども時代はいたずらばかりしていた。
「人を驚かせたかったんでしょうね。昼寝をしている父親の開いた口にお茶を注いで騒ぎになったのを覚えています。大学に進んでも性格はそのまま。友人が自動販売機でたばこを買う際、商品を選ぶボタンにビニールテープを貼り、千円札を入れたら、お金がなくなるまでタバコが出続ける、といういたずらをして驚かせたこともあります」
進学の際には文系科目が苦手という理由で理系を選んだ渡辺さん。面白いもので、ものづくりに興味がわいた第一歩は、このいたずらからだった。
「ボタンを押しっぱなしにすると、なぜ商品が出続けるのか? その仕組みに興味を持ちました。さらにその後、同じことをしても一つしか出なくなって『技術の進歩ってすごい』と(笑)」
機械工学科で学んだのは主に制御だったが、当時は勉強よりも、吹奏楽部でクラリネットばかりを吹いていた。だが、その活動の中で大学連盟の理事を任された。「いろんな大学が主張するバラバラの意見を、どうやってまとめていくか我慢強く調整することを覚えました」。その経験がエンジニアの仕事にも活きていく。
できないことは、できない。
100%理解し、理解してもらう。
先輩に誘われて入社したメイテックでは、機械工学科出身ということで、最初は機械系エンジニアとして入社。しかし、研修中に、マイコンソフト系に転換した。
「入社してみると、機械系の同期には、すごい人がゴロゴロ。必死に勉強してもとてもついていけず『取り残されるのでは』と危機感を持ちました。そんな時、分野転換の話があったのです」
大学での経験もあり、制御に関する科目の成績は良かった。少しでも得意なことを活かそうと新たな分野への挑戦に手を挙げた。
「制御は目に見えません。それでいて機械を自由に動かせる。動いたときに『こんなことができるのか』と驚かれるのもうれしくて、やみつきになりました」
最初の配属先は、大手家電メーカー。テレビ、ビデオ、DVDレコーダーなど制御用マイコンに16年間かかわった。
「このころから信条として、できないことはできないと伝えるようにしてきました。ただし同時に『こうすればできる』まで提案する。とりあえず始めるのではなく、まず全体工程を考えて、現体制では、ここまでできる、それ以上はできない。これだけの人員をまたは納期をプラスすればできる、工程を入れ替えればできるなど、逆提案する仕事が評価されたのかもしれません」
もう一つ、最初の業務で学んだのは、「100%理解する、伝える」ことの大切さだった。配属されて間もなく、簡単な評価装置を製作した。先輩に「チェックはしたの」と聞かれ、接続は確認済みだった渡辺さんは「しました」と答えた。ところが、電源を入れた途端、周囲の基板が火を吹いてしまったのだ。
「意外にも、話を聞いたリーダーはむしろ、指示をした先輩のほうを叱責したのです。『何をどうチェックするのかまで伝えなさい』と。それを聞いて、私もまた自分が『何をチェックするのですか』と確認することを怠ったことに気付きました。以来、指示するときも受けるときも、100%その中身が伝わらなくてはならない、と考えるようになりました」
16年の間にマイコンは4ビット→8ビット→16ビットと急速に進化。それにつれて開発するチームの人数も拡大し、意思疎通の複雑さは増していった。例えばDVDプレイヤーは、若干反りや傷があるディスクであっても読み取れる確実性が必要な一方で、レーザー装置の寿命を考えると照射量は少しでも少ない方が良い。このバランスを取るために何十人ものメンバーからなるグループがチームで動く。「チーム」が機能しているかどうかが、開発の成否にかかわってくる。「100%意向が伝わる」ことを大切にした渡辺さんの考え方が、評価されるようになったのは、当然のことだった。
「ミスは決して隠さないでほしい」と、
チームプレイを活性化した。
16年がたち、感じ始めたのは「ベテランになり駄目出しされなくなることで、独り善がりの仕事になるのでは?」という不安だった。「新鮮な視点で、違う経験を積みたい」とローテーションを希望。別のメーカーで携帯電話のアプリケーションを担当することになった。
「アナログテレビを携帯電話に搭載するためのアプリケーション、デバイスドライバーなどの開発業務です。ワンセグが導入される一歩手前の時期でした。この時驚いたのは、配属されてすぐ、チームの機能リーダーを任されることになったことです」
複数の派遣会社から配属されるエンジニアの混成チーム。業務への意識もバラバラでうまく機能していなかった。開発工程のトラブルが可視化されなければ後々問題は大きくなる。いきなりリーダーになった渡辺さんは、吹奏楽部時代の経験をもとに、我慢強くメンバーと向き合った。渡辺さんが言い続けたのは「ミスを隠さないでほしい」「できないことはできないと言ってほしい」ということだった。そうして風通しをよくすることで、問題解決のための対策も立てられ、徐々に成果が出せるようになっていった。
「変わったこと」をもっとやりたい。
これからも人を驚かせたい。
「リーダーもいいけれど、私の本質はプログラミングにあるのです」
次の業務では一担当者としての業務を希望した。
「担当したのはデジタル一眼レフカメラ。オートフォーカス、露出調整などのレンズと本体をつなぐ制御プログラムを担当しました。どうすれば少しでも速く動作させられるか。処理や手順など、無駄をギリギリまで省き、最短の道筋を突き詰めていく。また、他社製品の性能、トレンドといった『売れるか』という視点を求められたのは初めてで、大変だけれど面白い仕事でした」
この業務の終了後には、さらに「変わったことをしてみたい」と自動車分野へ新たな一歩を踏み出し、3年目を迎えた。
「自動車は安全性に厳しく、部品一つ一つに性能報告を行います。前回の製品からどう変更があったのか、それによる影響は何か、安全性は担保できるのかを検証して取りまとめ自動車メーカーに伝えるのです。私の役割は、要求を100%理解した上で、その要求を満たしていることをどうやったら証明できるかを考え、評価を実行し、報告書にまとめることです。正確な言葉で、誰にでも分かりやすく、誰でも同じ結果になる検証方法をとることを心掛けています」
現在48歳の渡辺さん。実はまだまだやりたいことがある。それは、医療機器分野の制御プログラム。これもまた、安全性に関しては高度なレベルが要求される。これまでの仕事で制御系に関する仕事を突き詰め、そして今、安全性についての知識を得たことで、その道に近づけているのではと考えている。さらに「こんなことができるのか」と人を驚かせる技術を生み出していくために、渡辺さんの成長は止まらない。
※当社社内報「SYORYU」:2016年冬発刊号に掲載した記事です