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Interview

歩みを止めずに4社目のメイテックで得た
設計と生産技術分野での想像を超えた成長。

機械系 生涯プロエンジニア(R)

清水 雅良

エンジニア略歴

  • 1987年~自動組立ラインの生産設備構想開発
  • 1992年~空調機用ファンコイルユニットの設計
  • 1992年~樹脂吐出装置の設計開発
  • 1994年~金属手動六方弁、流体機器の設計
  • 1995年メイテック入社
  • 1996年~工業生産住宅・部材の生産設備工法開発
  • 1999年~積層コンデンサー製造装置の設計
  • 2001年~冷凍機器用圧縮機・圧縮機ユニットの開発設計
  • 2002年~フィルム製造装置の設計
  • 2005年~積層コンデンサー製造装置の設計
  • 2009年~カップ容器印刷装置、板ガラス製造装置のユニット設計
  • 2010年~FPD用板ガラスの加工、膜付け設備に関する生産技術
  • 2024年3月定年到達

中小企業を3社転職。
成長機会を模索していた20代

人と接するのは好きですが、人前で話すのは苦手でした。若い頃には自信をなくしたこともありましたが、メイテックでエンジニアのキャリアを全うできそうです。

実は私はメイテックの前に3つの会社を経験しています。大阪で生まれて地元の大学の機械工学科へ。流体力学を学びました。その後、1社目となる地元の電気部品メーカーに入社。「ウチは電気系ばかりで機械系エンジニアがいないので助けてほしい」と言われ、新規設備に関する生産技術の仕事に就きました。設備の構想の中で図面を描く場面もありましたが、機械系の先輩がいないので自分の成果を評価できずに悩みました。教えてくれる人が欲しいという想いは強くなり、5年で退社しました。

2社目は、中堅空調機メーカーの子会社でファンコイルユニットの設計をしましたが、若気の至りで反りの合わない上司と大げんかし3カ月で退社。3社目は、油空圧メーカーの子会社で2種類の接着材を混合して塗布する二液混合塗布装置の設計に関わりました。仕事は充実していましたが、入社から1年ほどして親会社が倒産。全てが悪い方向に進みました。給料は上がらない。サービス残業させられる。配属転換され圧力容器の設計部門へ。厳しい上司に鍛えられ、エンジニアとしては成長しましたが、私は、例えば生産機械のようなカチャカチャ動く機構の設計をしたかったので、ストレスがたまり3回目の転職を考えました。

経験は無駄でなかった
成功が自信につながった30代

30歳を過ぎて実績と呼べるものがなく、自暴自棄になっていました。しかし妻子もあり仕事は必要です。メイテックの名を聞いたのは、就職エージェントの紹介でした。メーカーに派遣されて設計を行うという業務形態の知識もなく、印象は理想的ではありません。中小企業で働いてきた自分が、大手メーカーで働けるのか不安もありました。内定後も周囲の人に賛成してもらえず、悩みました。そこで就職エージェントの人に相談して、職場を見せてもらいました。神戸テクノセンター(当時)の研修設備を見て「実は、すごい会社だったんだ」と知りました。メイテックの採用担当の人が言ってくれた正直な言葉「人生がバラ色になるわけではないけれど、今よりはいいと思う」に親近感と信頼を覚えて入社を決断しました。


最初に配属されたのは大手住宅メーカーで、生産設備の工法開発業務でした。壁材や床材の塗装ラインや、ボードにビスを止めるラインの開発です。ほかにメイテックのエンジニアがおらず、自分の技術に自信がなかった私は不安でいっぱいでしたが、図面を描けと言われて恐る恐る提出すると、なんと「さすがですね!」と称賛をいただきました。自分では気付いていませんでしたが、最初の3社で無我夢中に勉強し、展示会にも行って貪欲に見聞きしたことが血となり肉となっていたのです。これが私のキャリアのターニングポイントとなりました。お客さま先の上司は仕事に厳しい人でしたが、私を高く評価していただき、メーカーとの折衝や大規模な工場のライン立ち上げなども任せてもらい、業務は3年半継続しました。

メイテックの先遣隊として
仲間たちの舞台を広げた

1社目の業務が終了した後、なぜか、それまでメイテックと関係が良好でなかった会社に配属されるなど、先遣隊のような役割を果たすことが増えました。36歳で配属された電子デバイスの仕事もそうです。行ってみると警戒されているのが分かるのです。図面を渡され「これだけをやってください」と言われ、製造現場を見たいとお願いしても「無理です」と。そんな不自由な中でも、想像力を駆使して最大限のアウトプットを心掛けていると、少しずつ対応が変わっていきました。

関わったのは、電子部品のコンデンサー製造のために金属とセラミックスを交互に貼り合わせる機械設計でした。課題は製品がとても小さいこと。1㎜角ぐらいしかありません。設計に当たって部品を見せてもらったときに言われたのは「ふっと呼吸したら飛んでいくから気を付けてくださいね」。その分加工にも精密さが要求されました。例えば、セラミックスの粉を吹き付ける工程では、金属部分が削れてしまう課題がありました。材料の選定に最大限配慮して、より強度の高い金属を使うことにより耐久性を上げ、メンテナンスのサイクルを長くすることができました。

この会社の技術部門には特徴がありました。部品を組んでいくときに、担当者独自のやり方を徹底的に排除して、誰が組んでも、誰が分解して再度組み立てても、きっちり合う標準化が求められたのです。例えばネジの選定一つにも、遊びがなくしっかりと合うものが要求されます。このようなお客さま先の技術思想によく適応し、図面作成が早いという評価を得て、メイテックのエンジニアの評価向上にも貢献することができました。2回目に配属された際は、情報も広く共有していただき、工場も見せてもらえました。メイテックエンジニアの受け入れ人数も増えていきました。

図面も描ける生産技術者として
40代から定年まで業務継続

さまざまな現場を経験する中で、ある会社では突然、経営的判断により開発中止になり、業務がなくなったことをお客さま先の上司に謝罪されたこともありました。別の会社は、過去にメイテックエンジニアとのミスマッチがあったとかで対応が極端にシビア。契約期間は最大1カ月と決められていました。そこで決められた1カ月の中で最大限の成果を心掛けたら、1カ月延長というこの会社では異例な待遇を得て、終了時にはこちらでも「申し訳ない」と言っていただけました。以降は、メイテックエンジニアの受け入れも継続していると聞きます。

2010年から現在のお客さま先で業務し、13年間契約が継続しています。こちらで製造しているのは液晶ディスプレイに使用する精密ガラス。年々サイズアップが進む分野ですが、ここでも軽量化の動きは急務で、最近は樹脂の両側に極薄ガラスを貼り付けるという超精密加工が求められています。

私は生産技術のエンジニアとして外部メーカーとの調整を中心に担当していますが、図面も引きます。私が担当するまでは、設備メーカーに仕様だけを指示する発注が行われてきました。これに対して、私は自分の経験と知識を背景に、基本的な機械の構造と、最適なスペックの部品選定まで行ってから依頼しています。設備メーカーの皆さんには負担が減ったと好評ですが、同時に逃げ道もふさいでいるので好悪半々な発注者と言えるかもしれません。また、細かいユニットは自分で設計し、社内製作によりコストダウンに貢献してきました。

お客さまからは、「定年後も継続してほしい」と言っていただいています。片道2時間の通勤には負担も不安もありますが、メイテックのエンジニアとして活躍の場所を与えていただいている限り、頑張ってみようと思います。転職時には想像できなかった、信頼していただきながら働ける場所があります。今思うのは、20 代・30代・40代・50代と自分が着実に成長を続けてきたこと、そして、歩みを止めない限り未来も開かれていくという確信です。

(インタビュー日:2023 年12月21日)

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