Interview
苦境もあった。「クリエーティブ」な仕事を求めた。
機械と光学の分かる装置エンジニア
機械系 生涯プロエンジニア(R)
エンジニア略歴
- 1988年メイテック入社
- 1988年~液晶プロジェクターの設計開発
- 1992年~工業用CCDカメラおよび応用品の設計開発
- 1993年~半導体検査装置の設計
- 2002年~半導体製造装置の設計
- 2002年~映像機器の設計開発
- 2009年~社内向け機械系カリキュラムの講師業務
- 2010年~生体計測機器の設計開発および付帯業務
- 2011年~質量分析装置の筐体、配置、周辺機器の設計開発
- 2013年~リチウムイオンキャパシタ量産用部品トレイの設計
- 2014年~生産設備の設計開発
- 2017年~光学部品の計測装置の設計開発
- 2022年~分社に伴う 組織立ち上げ業務
- 2023年~光学部品の計測・組立装置の設計開発
- 2024年9月定年到達
「設計をしたい」思いで転職し
念願のメーカーへ配属
求め続けたのは、考えて、形にして、世に出す「クリエーティブな仕事」。エンジニアへの淡い憧れから始まった私のキャリアは、「世にない製品を生み出す機会」と、「どん底の経験」を交互に乗り越えて広がった道のりでした。
長野県松本市に生まれ、福島県郡山市にある大学の機械工学部へ入学。実は高校生の頃は物理を学びたかったのですが、仕事の選択肢を心配した両親の意見を受け、機械系を選びました。「エンジニア」という響きへの憧れもあったと思います。もっとも、原理原則から考える開発に物理は必須なので、今思えば物理志望のままでも良かったかもしれませんね。そんな大学時代で思い出すのは、小型ガソリンエンジンの製図の課題で、バルブのエンジン図を描いて提出したことです。常識から外れていると先生に驚かれました。知識不足ではありましたが、固定観念に縛られずに考えてみるという意味で、開発における私の原点だったように思える記憶です。
卒業後は地元メーカーへの就職は厳しく、アルミ加工の町工場に入社します。設計をしたくても設計部門はなく、ビデオレコーダーのヘッド加工のための、NC旋盤の段取り替え、保守などを担当しました。設計への思いを募らせていたある日、国道沿いでメイテックの採用募集の看板を目にします。図面を描くエンジニアのイラストが印象に残り、話を聞くだけのつもりで拠点を訪問すると、即日試験が行われ採用が決まりました。自信も実績もない自分をなぜ採用?と後日聞いたら「やる気を感じた」と言っていただきました。
配属は地元でも有名なエレクトロニクスメーカーで、「この会社で仕事できるの?」と驚きました。しかも当時まだ普及していない液晶プロジェクターの開発・設計業務です。まさにクリエーティブな仕事でした。光学エンジン部の開発を担当し、分光部の配置や角度など、繊細なさじ加減で設定に工夫を重ねました。人間関係にも恵まれ、ゼロから仕事を教わり大変感謝しています。この業務があればこそ、「機械と光学の分かる装置エンジニア」としてのキャリアをスタートすることができました。
クリエーティブな業務の中
どん底も、成功体験も味わう
私は、大きい2つの苦境を経験しています。その1つが1993年からの半導体製造装置メーカーでの光学読取装置と検査装置の設計業務でした。シリコンウェハー上のバーコードやシリアルナンバーを読み取る機器や、装置の移動量をミクロン単位で測定する検査装置を担当。お客さまからの評価も得て9年近く継続しました。業務としてはクリエーティブでした。しかし、あまりにも忙しかった。業務時間は積み上がり、国内外への急な出張も頻繁。最後は燃え尽き状態となり、契約終了後、しばらく次の業務に就けなかったほどでした。
面白いもので、体力気力が回復した後配属された光学・医療機器メーカーの業務では、一転して充実した日々を経験します。それはハイビジョンをさらに高精細にした4K動画カメラの実験機開発。デザイナーが「ヘラクレスオオカブト」をイメージしたという筐体を実現し、その中に光学部品、基板、冷却器などをどう配置し固定するか、デザイナーや電気の担当者と詰めました。責任者を除いて、機械系は外部エンジニアだけで組まれた珍しい体制、かつチャレンジを後押ししてくれる責任者の下で、「こういうのはできない?」と、創造的に頭を悩ませるのは、エンジニア冥利に尽きました。また、実証実験機ということもあり、コスト度外視のマグネシウム合金による筐体設計、シミュレーションを多用する設計手法への挑戦もできて、知的好奇心を満足させる日々でした。思い返すと、そんな成功体験を得て、私は少々天狗になってしまっていたのかもしれません。リーマンショックで契約が終了した後、次のお客さま先へ配属され、それを思い知ることになります。
キャリア最大の苦境が反面教師。
謙虚に業務に向き合う
2011年から新たに配属されたエレクトロニクスメーカーでの業務で、私は職場の人間関係や仕事の進め方を完全に読み誤りました。それまで経験した業務は「上長から直接指示を受け、報告もその人にする」という進め方だったのに対し、新しい職場は、チーム全体への情報共有が求められるプロジェクト体制。以前の成功体験を引きずった私は、お客さまのやり方に沿うことができず、プロジェクトの中で孤立します。悪いことは重なるもので、故郷の母が体調を崩し、毎週末に片道数時間をかけて往復するようになると、心身をすり減らして「言われたことだけやる」という心持ちにまで落ち込みます。結局契約期間途中で終了することになりました。
正直退職も考えました。しかし、事情を知る拠点が尽力してくれて、故郷へ戻れることになりました。しかも別事業所ではあるものの、以前お世話になった光学・医療機器メーカーでの業務です。心機一転、ここで初めて本格的な機構設計に挑戦することに。「分からない」からの再スタートですが、「分からないなら教わるしかない」と腹をくくりました。前業務の失敗を反面教師に、お客さまのやり方に寄り添うことを第一とし、謙虚になって自分から「教えてください」とコミュニケーションをとったのです。
これにより良好な人間関係を構築することができました。その結果、機構のイロハを吸収して経験の幅を広げ、これまでの経験と併せて機械系の主だった設計を網羅することができました。そして人としても成長することができました。
世界最高水準を目指す。
60歳近くのリスキリングも経験
2017年からは、光の干渉を利用した光学部品の表面精度検査装置の設計に携わりました。お客さまが構想した3Dモデルを基に、基本・詳細設計を担当。私が積み重ねてきた筐体・構造・機構、そして光学の経験を併せた集大成の業務です。業務の進め方としては「常にお客さまに寄り添い、何を欲しているのか確かめながら進める」ことを旨として、世界最高水準の測定精度を目指すとした高い設計要求に対応。目標精度をほぼ達成することができました。
その後、お客さまの分社による体制の変更もありつつ、現在まで業務が継続しています。分社にあたっては、組織の立ち上げという貴重な経験をすることができました。分社と事業移管に伴う新部署の環境設定やデータの移行、それと並行して異なる3D CADシステムへの対応を行いました。異なる3D CADの操作を覚えるために、老若男女からいろいろ教えてもらいました。60歳近くのリスキリングです。
現在は、自分自身が立ち上げに関わった組織で設計業務をしています。少人数のチームなので定年後もしばらくは辞められない雰囲気です。今のうちに、若手エンジニアに光学ほか私の持つ知見も渡したいと考えています。
好調と苦境の時期が交互に訪れた私のエンジニアキャリアですが、つらい時期は誰にも訪れます。解決策を模索してもうまくいかない、耐えるしかないときもあります。いざというときは我慢しすぎず、引き下がる、休む選択肢もあるでしょう。そして良い風が吹くのを待つ。これからも無理せず、でも前向きな精神で、今しばらくエンジニアキャリアを続けていこうと考えています。
今まで出会った全ての方々に感謝申し上げます。
(インタビュー:2024年5月15日)